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常盤橋(ときわばし)

更新日 : 2023年6月7日
ページ番号:000009743

 常盤橋は、細川時代(江戸時代初期)に紫川の東側を東曲輪として開発したときに、以前からの城下町であった西側(西曲輪)とを結ぶ橋として架設されたといわれています。当時は大橋と呼ばれ、元禄5年~7年に架け替えられてから、常盤橋と呼ばれるようになったようです。

 江戸時代、常盤橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼びますが、そのすべてがこの橋につながっていました。

 当時、紫川の西と東を結ぶ橋は2つしかなく、城下町小倉の中心地は室町・京町筋だったことから、常盤橋は非常に重要な橋であったことが推察できます。

常盤橋の橋脚

工夫を重ねた常盤橋の石くい

常盤橋の橋脚

 常盤橋は、江戸時代の終わりごろまで基礎が木でつくられていたので、すぐに腐って大雨が降るたびに流され、架けかえられていました。1800年代初期に、当時としては珍しい「石くい」に替えたことで、橋は強度を増し、補修や維持が容易になりました。文政年間に使われた石くいの一部は常盤橋の西岸たもとに残されています。

江戸時代の常盤

 小倉から長崎まで25宿、57里、228キロの道を参勤交代の諸大名、 長崎奉行、 オランダ商館の行列が小倉で休憩又は宿泊しました。福岡、熊本、薩摩藩をはじめ、長崎街道を利用した諸藩には、小倉にそれぞれの定宿本陣があったわけです。

常盤橋の左岸北側には港があり、ここから下関に渡りました。筑前門口から小倉に入り大門、室町を経て常盤橋を渡り、東曲輪の宿屋に落ち着いて、潮待ちの休憩か宿泊のうえ、再び常盤橋を渡って下関行きの船に乗るのが普通のコースだったようです。
 出島のオランダ商館カピタン一行も、将軍への献上品を持ち、100名程の行列で、毎年江戸参府を繰り返しました。江戸初期の元禄4(1691)年にケンペル、中期の安永5(1776)年にツンベリー、後期の文政9(1826)年にシーボルトが、江戸参府に随行してそれぞれ旅行記を残しています。

財団法人 北九州都市協会発行「てくてくマップ北九州」より

江戸時代の常盤橋
「西国内海名所一覧」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵
当時の写真

現在の常盤橋(室町二丁目)

 平成7年に紫川マイタウン・マイリバー整備事業のひとつとして、江戸時代と同じ「木の橋」に生まれ変わりました。橋げたには、コンクリートと同じ強さを持つ木(ボンゴシ材:西アフリカ産)が、そして欄干には手触りのよいチーク材など、天然木が使われています。

 また、中央に向けて徐々に高くなる反り橋となっていますが、バリアフリーに配慮して反りは緩くなっています。 [長さ85.0メートル、幅6.0メートル] 

 木の橋を渡って室町方面に歩いてみると、静かなたたずまいの家並みが続き、長崎街道のおもかげを感じることができます。ゆっくりと散歩しながら、シーボルトや伊能忠敬も眺めた風景を見てみませんか。

常盤橋全体の写真
現在の常盤橋
常盤橋銘板の写真

常盤橋を訪れた人々

伊能忠敬

伊能忠敬

 日本全国を測量した「測量日記」には、1810年(文化7年)1月12日に、「室町の三つ辻より、常盤橋を渡り、常盤門をとおり...」と、記録が残されています。 (写真:伊能忠敬記念館所蔵)

シーボルト

シーボルト

 (日記より)1826年(文政9年)1月15日「大きな木の橋を渡り、広場に進み、ほどとおからぬ宿舎につく」1月16日「橋の上で何度かコンパス測量を行った。ここからは海峡を望む広々とした風景が開けている。橋の下を流れる川は南から北へ流れ、小倉の住民は紫川とよんでいる。」 (写真:シーボルト記念館所蔵)

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