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高塔山公園

高塔山公園のマップ
所在地 若松区大字修多羅 【地図】(外部リンク)
開設 1942年4月
面積 18.0ha
計画決定面積 20.6ha

 高塔山公園は、標高124mの高塔山の山頂にある公園です。中世には大庭隠岐守景種(おおばおきのかみかげたね)が築いた山城があったと伝えられています。展望台からの眺望は素晴らしく、東に若戸大橋、南に皿倉山、北に響灘を望めます。特に夜景は絶品です。

 また、園内には、四季の花々が植えられています。春は桜・ツツジ、初夏は、アジサイの名所として知られ、その時期には多くの人で賑わいます。7月には、まるで炎の大蛇のように、約2000人のタイマツ行列が高塔山にうねり登る「火まつり」が行われ、その様はまさに壮観です。

高塔山展望台

 標高124mの高塔山の山頂にあるだけに、展望台からの眺望は格別。若戸大橋や皿倉山、響灘が一望できます。夜景も見逃せません。

展望台から見える若松の風景
展望台から見える若松の夜景
展望台からの風景
展望台広場

県木の森

県木の森

巨大で立体的な緑の日本地図

 県木の森は、その名の通り、日本全国の県木がある森。沖縄のリュウキュウマツをはじめとして、福岡のツツジ、奈良のスギ、埼玉のケヤキ、長野のシラカバ、北海道のエゾマツまでが植えられています。それも、漫然と並べて植えているのではなく、大きな日本地図の形をした花壇の、各県の場所に植えられているのです。

万葉植物園

 若松市(当時)は、高塔山公園整備の一環として昭和31年10月、この地に万葉の歌にちなんだ若木50数種を集めて、万葉植物園を開設しました。
 それぞれの草木に代表歌を書いた木札が立てられています。名前だけ知っていて、目にしたことのなかった草木にふと出会ったり、誰もが見知っているそれに、こんな雅びやかな名前が付いていたのかと、歌と植物の勉強が楽しくできます。
  火野葦平文学碑に隣接した静かな場所にあり、しばしの憩いと散策に、万葉びとの歌心がそこはかとなく流れてくる植物園です。

仏舎利塔

仏舎利塔

 釈尊入滅2500年を記念して、インドのネール首相より贈られた仏舎利(釈迦の遺骨)を祭るこの仏舎利塔は、昭和32年に建てられました。
 奉安が実現したのには、地元の人々の熱心な運動があったからといいます。
 ここから玄海遊歩道が始まり、石峰山地の尾根をたどって、頓田貯水池のある響灘緑地で終わります。尾根からの眺望は雄大で、玄界灘や関門大橋を同時に見ることができます。

かっぱ封じの地蔵尊

かっぱ封じの地蔵尊

 高塔山頂上のコンクリート堂の中に背中に釘のささった虚空蔵菩薩がまつられています。この河童封じ地蔵は、若松生まれの作家・火野葦平の小説『石と釘』により有名になりました。
 その作品によると・・・昔、島郷と修多羅のカッパ群が、夜になると手に手に葦に葉っぱを太刀のようにひらめかし空中戦を行い、朝になると、田や畑にカッパの死体が溶けて青緑の液となって溜まり、鼻をさす悪臭を放ち、村人達を困らせていました。
 この話を聞いた堂丸総学という山伏が、カッパ封じの祈祷を始めました。日は昇り、日は沈み、また昇り、また沈み、山伏は食抜きで祈祷を続けました。カッパの化身は美女になり、金銀をつみ、お化けとなり、尿を垂れ流し、妨害しましたが、山伏の祈祷は続けられ、何千遍目かの日の沈む頃、石地蔵の肌はモチのように柔らかになりました。すかさず山伏は、地蔵の背中に1尺(約30cm)の大釘をハッシと打ちこみました。その瞬間、カッパ群は木の葉のように舞い落ち、永遠に地中に封じこめられたと伝えられています。
 毎年7月下旬の夜、「河童まつり」「火まつり」が行われます。
 ※一般には「かっぱ地蔵」といわれていますが、正しい名称は「虚空蔵菩薩」です。

火野葦平文学碑

葦平碑

 洞海湾を一望する高塔山南側の台地に建てられています。方形の大きな黒御影石で、台に使用した斑紋のある赤い石は、スェーデンから取り寄せたものです。
 黒御影石の文学碑の表面には、故人の筆跡で

   泥に汚れし背嚢に さす一輪の菊の香や

火野  葦平

と、彫りこまれています。

 裏面には故人の文学の友、劉寒吉の追悼文が刻まれています。昭和35年建立。谷口吉郎(たにぐちよしお)氏の設計です。
 除幕式には、『九州文学』の同人や地元の人たちは勿論、東京からも多くの文士が参列しました。
 作家の丹羽文雄が「この碑文は四行詩の前二行で、あとに続く<異国の道を行く兵の 眼にしむ空の青の色>という二行が書かれていたら、葦平も喜ぶだろう」と述べたのが、参列者の共感をよんだそうです。
 碑の下には、葦平選集八巻・芸術院賞をうけた『革命前後』の原稿・筆記具・へその緒などが埋蔵されています。
 火野葦平は、明治40年若松に生まれ、こよなく郷土を愛し生涯を文学に徹しました。
 それは『糞尿譚』で芥川賞を取り、『麦と兵隊』等兵隊三部作で文学不動の精神を確立し、『革命前後』に至るまで、終生かわることがありませんでした。
 昭和35年1月24日、高塔山に斑雪の光る未明に、河伯洞の書斎で自ら命を絶ちました。享年53才でした。
 毎年、命日の前の日曜日に碑の前で、葦平忌が催されます。筑前琵琶・尺八の演奏に故人を偲び、参列者一同菊一輪を捧げ、最後に全員で“麦と兵隊”の歌を合唱します。

吉田磯吉

吉田磯吉像

 吉田磯吉(1867~1936)は、川ひらたの船頭から身を起こし、明治・大正・昭和の3代にわたって、北九州の石炭業界に君臨しました。のちに民政党代議士として中央政界でも活躍し、北九州の産業の発展期を代表する人物の1人でした。
 銅像の製作者は、日本彫刻界の泰斗・佐藤忠良で、昭和35年(1960)洞海湾を見下ろすこの丘に建立されました。
 吉田磯吉は、昭和11年1月17日に70才で死去し、同26日に若松市浜町小学校で葬儀が行われました。この会葬には、降雪にもかかわらず2万名の参列者、供米1200俵、清酒20樽、花輪一千余と記録され、筑豊線には会葬者のため、特に二等車を連結した空前の盛葬でした。
 このような希肴の人望を集めた吉田磯吉とは、どのような人物だったのでしょうか?
 磯吉は、遠賀郡芦屋町に生まれました。生家は、代々松山藩士でしたが、父・徳平が、脱藩して諸国を流浪した後、芦屋に住みました。
 16才のとき、元服して祖父の徳右衛門を襲名し、魚介や野菜の行商から身を起こしました。当時、遠賀川を上下した石炭船の船頭として、ずば抜けた腕力と胆力が大衆を圧し、船頭仲間に頭角をあらわしました。
 後に若松市に嫁いだ姉のもとで食客しながら、次第に人侠の世界に入り、他の人侠勢力を排除して名をあげました。
 明治43年、大阪相撲協会の大関・放駒(はなれごま)が東京相撲協会に走り、両者が鋭く対立したいわゆる「放駒事件」を解決したことで全国に名をなしました。
 その後、政治家をめざして衆望をにない、大正4年、衆議院議員に初当選しました。
 大正10年には、政友会の日本郵船乗っ取りの策謀を封じるなどして有名になり、昭和7年まで議員として活躍しました。
 一方、明治34年に八幡製鉄所が開設されると、景気の渦に寄せられて全国各地から、大小の会社、商店が進出しました。これらに寄生しようと、多くの無頼の人々も入って秩序が乱れると、磯吉は前面に立ち、防衛するようになりました。
 地元若松市では実業家として、石炭関係、若松魚市場、運輸関連企業の役員を務め、地元はもとより、北九州産業界の発展に大きく寄与しました。

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