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若戸渡船の沿革

 若松-戸畑間で一番距離が近かったのが、現在若戸渡船が運航している、洞海湾の入口で直線距離約400mであった。

 以前、渡船は「大渡川渡船」と呼ばれており、小さな伝馬船で人や荷物、郵便等を運ぶ程度で車馬はもちろん運べず、また風雨の激しい時は欠航した。

 若松の地主、山本喜七郎氏の一族が維新前から代々渡船経営にあたっていた。明治22年頃、収入の全部を恵比寿神社に奉納し、渡船経営は若松村に移され、村有財産になったが、経営は個人名義で行われていた。明治24年には若松村は若松町となり、明治36年12月に個人名義の渡船経営を町長名義に変更する願いを出し、明治37年4月に許可されている。

大正14年頃の戸畑渡場
(大正14年頃の戸畑渡場  右に見えるのは電車乗場)

 戸畑側でも戸畑地区民が輪番制で経営していたが、明治22年村制がしかれたのを期に戸畑村営に移行した。(渡船沿革史により)
 また、このころにはかば島(中ノ島)にも寄港していた。(若松市史より) 

 大正に入り、渡船経営は大正3年4月に町から市となった若松市と戸畑町(戸畑町が市になるのは大正13年9月)との共同管理で営まれるようになる。若松市長と戸畑町長は大正8年3月に共同経営に関する協定書を取り交わし、4月から実施されている。
 なお、共同経営に関する事務は、

  • 若松市と戸畑町で隔年輪番でこれを処理する。
  • 協同経営に要する費用は、毎年12月中に両市町で協定し、当番市町の予算に計上し、非当番市町は、支出金の折半額を分担金として出すと共に、運賃を折半して収入する。

などが主な内容である。
 協同経営になってから『大渡川渡船』の名は『若戸共同渡船』と改められた。
 なお、昭和11年にはそれまでの請負金制度を廃止し、両市の直営事業となっている。(渡船沿革史より)

昭和25年頃の運航風景
(昭和25年頃の運航風景 若松側から戸畑側を望む)

 昭和20年11月12日には市町村組合法に基づき、知事の許可を得て一部事務組合を設立し、若戸共同渡船組合として昭和21年1月1日に発足している。
 管理者には、若松、戸畑両市が2年交替でこれに就任。この組合には議会を置き、定数22名で(両市各11名)両市市会議員から選出された。また、事務所も2年おきに管理者側に移転していた。この組合は管理者のもと、助役、収入役、その他職員が配置されており、最盛期には91人で業務にあたっていた。

昭和30年頃の若松桟橋 第七わかと丸
(昭和30年頃の若松桟橋 第七わかと丸)

 昭和37年9月26日の若戸大橋の開通に伴い、9月27日から貨物渡船を廃止、旅客部門も廃止の予定であったが、利用者の強い要望により存続、昭和38年2月10日の五市合併に伴い北九州市に移行し、職員60名が経済局事業部、若戸渡船事務所に所属することとなった。

 その後、若戸渡船事務所は小倉航路事業(小倉~馬島~藍島航路)を所管することとなり、名称は昭和40年9月10日より渡船事業所となる。
 さらに、渡船事業所は昭和46年6月26日に経済局商工部(後の経済文化局総務観光部)の所属となり現在に至っている。

このページの作成者

産業経済局総務政策部渡船事業所
〒804-0075 北九州市戸畑区北鳥旗町11番1号
電話:093-861-0961 FAX:093-861-0962

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