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定期航路の始まり

更新日 : 2019年3月19日

はじめに

 明治中期以前は藍島(17戸)馬島(8戸)は農業が主で、細々と暮らしを立てていた。四方を海で囲まれ、漁礁、魚場に恵まれていたこれらの島では、島民は徐々に漁法を覚え、舟を作り魚網も改良され、半農半漁の島となっていった。

 漁獲量が増加するにつれて、鮮魚や農作物(かんしょや野菜)を舟で若松、戸畑、小倉等に商い、帰りには、肥料や漁具、雑貨等を仕入れて帰るようになった。 古くは距離的にも近く、潮流や風の影響も少ない若松が取引・交流の中心であった。
 「舟」といっても小型の木造船で、帆が動力であるため、風の無いときは櫓や櫂を使用する程度、途中で釣り糸をたれることもあったといわれている。

 この他での本土との交流は、いわしやあじ等の最盛漁期に山口県鐘崎方面から入漁料を払ってやってくる漁船に便乗させてもらったともいわれている。
 どうしても便船がないときや緊急の場合は『役目』といって三戸一組になって、順番を決め、舟を仕立てていた。医者や官吏の送迎などにはこの『役目』が従事しており、この便船で1ヶ月に3回の郵便が配達された。

 明治も末期になると、『〒旗』を立てた舟により、月5回の収配達が行われるようになった。
 この郵便物は長浜郵便局が受け持ちで、当時の配達料は1回に2円もしたとのことである。

 いったん季節風で海が荒れると、長期間の欠航が余儀なくされたため、島民はまさに一日千秋の思いで海を眺めていたであろう。

定期運航の始まり

 明治末期になると、藍島区長が小汽船の定期寄港を出願したが、許可されなかった。

 大正2年、藍島住民の、上村慶蔵氏が物資の運搬と島民の交通を考え、渡船運航の必要性を島民に呼びかけたが、同意は得られなかった。
 やむを得ず上村氏は『藍島丸』(5トン 焼玉エンジン5馬力)を建造し、個人で運航を始めた。 

 当時の漁船は無動力船であったので、珍しさもあって、非常に重宝がられ、好調な滑り出しであった。
 一日一往復で鮮魚運搬が主であった。 運航は、朝、藍島を出航し、戸畑に行き昼過ぎに帰島していた。 出港前にはさこんだ峠(現在の藍島隧道の上)で『チリン、チリン』と鐘を振って合図し、利用者の便をはかった。(この鐘は上村家に保存されている) 

 しかし、運搬の必要性は島民全員が痛感しているものの、利用者や鮮魚・農作物等の数量が少なく、経営は困難を極めた。

藍島~馬島~小倉航路の運航開始

 大正12年、小倉市もようやく定期船の必要性を認め、新造船の建造も決まり、総トン数10トン焼玉機関の旅客船を建造。勝山橋にちなんで『勝山丸』と命名した。

 小倉市の当時の管理者は、船は無料で貸与し、運営の一切は契約者に一任する条件を提案、それまで藍島丸を運航していた上村慶蔵氏と3年の契約を結び、運航は長男である上村利夫氏が行うこととなった。
 航路は現在の、藍島~馬島~小倉間で現在の運航形態の草分けとなる。

 新造の当初は速力も速く乗客もかなりあったのだが、次第に利用者も減少し採算割れとなっていった。上村氏の次に契約を交わしたのが藍島漁業組合長の後藤正則氏であったが、これも個人では採算が成り立たず3年契約の途中で返上している。その後も救難所二代目組長森本和吉氏が引き受けたが、長続きせず再び上村慶蔵氏に押し付けられてしまった。
 この後、小倉魚市場の樋口常務が引き継いだが、思うようにいかず、藍島漁協に返上されることとなった。
 このように次々と運航契約者が変わるというのは、条件が悪く、運営が非常に困難を極めたものであったためといえよう。

 昭和11年には馬島漁業組合にも無理矢理押し付けられ、当時の漁協の代表者であった菅菊松氏が引き受けるはめとなった。勝山丸も老朽化が激しく、菅氏が乗り込んで6ヶ月目には破損してしまう。このころになると、郵便業務がついたので、運営もやや楽な状態になっていた。

 その後菅氏は、民間の中古船を借りて細々と定期運航を継続した。彦島海士郷の新田氏の鰯船、壱岐の澄世丸、五島の明石丸、馬島の馬島丸、関門丸、隼丸と乗り継いで終戦を迎えることとなる。
 この間は中古の借り船で寿命も短く、採算も取れず、乗組員の給料も遅配続きで、しばしば途中で逃げ出す船員もあった。

 菅菊松氏の苦労は文字では言い表せない大変なものであったであろう。10年の長きにわたり、物資不足の戦時中、投げ出すことなく、時には米軍機が古敷岩(一名軍艦岩)を軍艦と誤認し、爆弾を投下していく近くを運航したこともあった。この離島航路を死守した功績は海事従事者の鏡ともいうべきである。

 昭和21年3月末日をもって菅菊松氏との契約満了を期に、旧小倉市の市営渡船として、市職員が乗り組み、運航することとなった。昭和23年には下関彦島の島民からの強い要望で、10月1日から彦島西山に寄港することになったが、昭和24年末には中止された。

 市営渡船は夏ともなると海水浴客が急増し、民間船を傭船して急場をしのいできたが、このような手段では島民、市民の要望に応えられず、昭和26年度には、新造客船の建造を決定。
下関旭洋造船所に発注、昭和27年6月完成。『小倉丸』と命名し、7月に就航している。
 これが初代『小倉丸』である。

このページの作成者

産業経済局地域・観光産業振興部渡船事業所
〒804-0075 北九州市戸畑区北鳥旗町11番1号
電話:093-861-0961 FAX:093-861-0962

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