「病院の横は寺である。墓地には古ぼけた墓石がならび、銀杏の樹の下に、鐘楼がある。いつぞや、パナマ丸の荷役をするため、燈台沖まで、伝馬船で漕ぎだしたとき、朝の五時になって、金五郎たちの聞いた鐘の音は、この安養寺の鐘楼で、撞き鳴らされたものであった。」
火野葦平選集 第五巻 『花と龍』 第一部 より
故郷と河童を愛した男として、火野葦平は広く人々に知られています。
その彼を生んだ町・若松には、今も当時の面影が色濃く残っています。
資料館に彼の文学の足跡をたどり、高塔山の文学碑や河童地蔵尊を訪ねるなど、点在する葦平の跡を散策するのも興味深いものです。
生涯を文学に徹して庶民の心を綴った彼の熱い想いが、そっとあなたに語りかけてくるかもしれません。
明治39年12月、父・玉井金五郎、母・マン(旧姓谷口)の長男として福岡県遠賀郡若松町(現北九州市若松区)に生まれました。
小倉中学校入学後、漱石等の作品に接し、文学を志しました。
早稲田第一高等学院を経て、早稲田大学英文学部を中退後、一時家業を継いでいましたが、昭和12年、日中戦争のため応召。
昭和13年、出征中に『糞尿譚』が第6回芥川賞を受賞し、軍報道部時代に書いた兵隊三部作により、一躍、国民作家として脚光を浴びました。
戦後、昭和23年から25年まで公職追放をうけましたが、追放解除後も筆は衰えませんでした。創作活動の拠点である若松の『河伯洞』と東京の『鈍魚庵』とを飛行機で往復するなど、精力的に活動し、『花と龍』など北九州を舞台とした数多くの作品を書き続け、再び流行作家として活動しました。
昭和35年1月24日河伯洞2階の書斎で自ら命を絶ちました。享年53歳でした。
昭和35年5月、戦中戦後の自らの心の軌跡を描いた『革命前後』及び生前の業績により日本芸術院賞を受賞しました。
資料館は、若松市民会館内にあり、復元された書斎をはじめ生涯をたどる写真パネル、日記やノートなど葦平ゆかりの資料が展示されています。
激動の昭和史を象徴的に生きた、葦平の当時の様子をうかがい知ることができます。昭和60年7月1日開館
所在地 | 〒808-0034 北九州市若松区本町3丁目13番1号(若松市民会館内) |
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電話・FAX | 093-751-8880 |
開館時間 | 10時から16時 |
休館日 |
月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、翌日が休館) 祝日の翌日(その日が土曜日、日曜日、祝日にあたるときは開館し、直後の日(日曜日、月曜日及び祝日を除く)) 毎月第3木曜日 12月25日から1月3日 |
入場料 | 無料 |
交通アクセス |
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現存する河伯洞の母屋は、葦平の出征中に、父金五郎が兵隊三部作の印税で建てたと伝えられています。
戦後、この母屋に棟続きのモルタル造りを増築、その二階が葦平の書斎となりました。絶筆『真珠と蛮人』に至るおびただしい作品群の多くが、ここで生まれました。昭和35年1月24日、葦平はこの書斎で自ら命を絶ちました。
「河伯洞(かはくどう)」は、河童の棲む家という意味で、火野葦平(ひのあしへい)[本名:玉井勝則(たまいかつのり)1906から1960] が、河童をこよなく愛したことから名付けられたものです。
葦平は、この河伯洞で昭和15年(34歳)から昭和35年(53歳)までの大半を過ごし、代表作の一つ『花と龍』をはじめとして絶筆となった『真珠と蛮人』までの数多くの文学作品を生み出しました。
葦平文学が世に知られたのは、昭和13年『糞尿譚(ふんにょうたん)』で第6回芥川賞を受賞したことによります。この作品で、一地方作家から全国的な作家になりました。
在京ではなく地方からの受賞は、当時の芥川賞としては画期的なものと言われています。
続けて世に送りだした『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の兵隊三部作で、ベストセラー作家になりました。
「河伯洞」は、父・玉井金五郎が息子、葦平のためにとその印税によって建てたものです。葦平は、戦地での戦友達の苦労への思いから、後々もこのことを負担に感じていたといいます。
多くの友人、文学仲間を招き、ざしきで賑やかな新年宴会を開くなどの暮らしぶりから豪放磊落な面がうかがい知れるとともに、河童好きでユーモアを感じさせる一面がこの河伯洞に残されています。 河伯洞に佇むとき、葦平が「足は地に 心には歌と翼を ペンには色と肉を」と語りかけてくるようです。平成9年3月、市指定文化財。平成11年1月、保存工事を終え公開。
所在地 | 〒808-0035 北九州市若松区白山1丁目16番18号 |
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電話・FAX | 093-771-0124 |
開館時間 | 10時から16時30分 |
休館日 |
月曜日(月曜日が休日の場合は、開館し翌日が休館) 毎月第3木曜日(祝日でも休館) 祝日の翌日(その日が土曜日、日曜日、祝日にあたるときは開館し、直後の日(日曜日、月曜日及び祝日を除く)) 年末年始(12月29日から1月3日) |
入館料 | 無料 |
交通アクセス | JR若松駅より徒歩5分 JR戸畑駅より 市営バス 折尾・本城陸上競技場行き「若松駅前」下車徒歩5分 市営バス 若松営業所行き「大橋通り」下車徒歩7分 若松渡船場より徒歩15分 駐車場有り |
「病院の横は寺である。墓地には古ぼけた墓石がならび、銀杏の樹の下に、鐘楼がある。いつぞや、パナマ丸の荷役をするため、燈台沖まで、伝馬船で漕ぎだしたとき、朝の五時になって、金五郎たちの聞いた鐘の音は、この安養寺の鐘楼で、撞き鳴らされたものであった。」
火野葦平選集 第五巻 『花と龍』 第一部 より
「私は高塔山に登り、その頂上の石の地蔵尊の背中にある一本のさびた釘に手をふれる時には奇妙なうそざむさを常におぼえるのである。そうして、その下に無数の河童が永遠に封じこめられているという土の上に、ようやく萌えはじめた美しい青草をつくづくながめるのである。」
火野葦平選集 第三巻 『石と釘』 より
「洞海湾を中心とする北九州を、眼下に一望できる金比羅神社の境内は、撩乱たる桜の花ざかり、晴れあがった青空の下で、各所に、花見宴が張られていた。
「ドテラ婆さん」も十四、五人の子分づれで、朝から、気焔をあげていた。芸者も、五人ほど、席に侍って、取り持ちをしている。
ギンの命令で、二人の芸者が、三味線を取り上げた。 一人が、「なにをお歌いになるの?」「磯節。・・・・・・ええな」女親分は、細い眼をさらに細めて、歌いだした。
若松名所を知らない人に、若松名物、知らせたい。金比羅山から、岬(はな)の山、桟橋、眺めりゃ岡蒸気が、ピィ・・・・・・」
火野葦平選集第五巻 『花と龍』 第一部より
「若松蛭子祭というのは昔から近郊にひびいた有名な祭だ。雨蛭子ともよばれ、どういうものか、三日間の祭期中、一日はかならず雨が降るといわれている。」
火野葦平選集 第八巻 『猿』 より
泥によごれし背嚢に
さす一輪の菊の香や 火野葦平
眼下に葦平文学の舞台となった市街地や洞海湾を見下ろす、高塔山の中腹に建っています。碑文は「異国の道をゆく兵の眼にしむ空の青の色」と続く四行詩の前二行です。埋蔵品は、選集全八巻、『革命前後』原稿用紙、ペン軸、付けペン、万年筆、へその緒。毎年、命日の前の日曜日に碑前で、“葦平忌”が催されます。挨拶や諸行事のあと、参列者が菊花を捧げ、最後に全員で“麦と兵隊”の歌を合唱します。
設計 谷口吉郎 昭和35年建立
若松区役所総務企画課
〒808-8510 北九州市若松区浜町一丁目1番1号
電話:093-761-0039 FAX:093-751-6274