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設備と船舶

更新日 : 2022年7月15日
ページ番号:000003183

客船

 若松と戸畑の直線距離はわずか400m、伝馬船(二丁櫓)を使用していた渡船は時勢の推移にうながされ、明治43年9月若松・戸畑両町間で『大渡川渡船改良委員会』を設置し、鋭意研究の結果、前後部に推進器と舵を備えた船を大阪小野鉄工所に発注し、明治44年4月竣工。
『第一かわと丸』と命名し、4月16日に就航させた。これが日本で渡船に汽船を使用した最初である。これにより今まで8分かかっていたのが4分に短縮される。また同年11月に『第二かわと丸』を就航させ常時2隻運航となる。

第六わかと丸の写真
第六わかと丸 昭和6年4月から昭和44年5月就航 総トン数57.65トン 定員130名

 昭和5年4月2日(若松恵比寿祭初日)に第一わかと丸が中ノ島(かばしま)近くで転覆事故を起こした。
 この事故は73名の犠牲者を出す当時最大級の海難事故であり、昭和天皇より御内帑金を頂いたという記録が残っている。
 この事故を受け、復元性能が十分安全である第六、第七わかと丸を建造、大型化し、速力、安全性ともに増加、渡船の充実がはかられた。

第十わかと丸の写真
第十わかと丸 昭和25年8月から昭和53年3月就航 総トン数 73.42トン 定員168名

 その後、ディーゼル機関の発達と普及に伴い、需用費、人件費等の節減のため、昭和40年6月『第十二わかと丸』を建造。 さらに同年9月に『第十わかと丸』主機関のディーゼル化を実施。昭和44年5月の『第十三わかと丸』の建造を機に、明治44年から昭和44年までの58年間モクモクと煙をはき、喜びと悲しみを積んで若戸間を走った情緒豊かな蒸気船も『第六わかと丸』を最後に姿を消すこととなる。

第十二わかと丸の写真
第十二わかと丸 昭和40年7月から昭和56年3月就航 総トン数 69.52トン 定員170名
第十三わかと丸の写真
第十三わかと丸 昭和44年5月から昭和62年4月就航 総トン数 70.36トン 定員 150名

 昭和53年3月には『第十わかと丸』が『第十五わかと丸』に、昭和56年3月に『第十二わかと丸』が『第十六わかと丸』にバトンタッチし、さらに昭和62年3月に『第十七わかと丸』が『第十三わかと丸』に交替し、平成12年2月に『くき丸』が『第十六わかと丸』の後を継ぐことになる。

第十五わかと丸の写真
第十五わかと丸 昭和53年4月から平成8年3月就航 総トン数 75.12トン 定員 163名
第十六わかと丸の写真
第十六わかと丸 昭和56年4月から平成12年3月就航 総トン数 74.59トン 定員 170名

 平成17年4月からは、渡船事業経営改善検討委員会の提言を受け、小型船舶に改良された『くき丸』による終日1隻運航に運航体制が変更となったため、『第十七わかと丸』は、平日の朝のラッシュ時にのみ運航されていたが、平成23年1月に第十八わかと丸の就航に伴い、現役を引退した。

第十七わかと丸の写真
第十七わかと丸 昭和62年3月から平成23年1月就航 総トン数 43トン 定員 170名
くき丸の写真
くき丸 平成12年1月就航 総トン数 19トン 定員 110名
第十八わかと丸の写真
第十八わかと丸 平成23年1月就航 総トン数38トン 定員140名
  • 平成22年には、「第十七わかと丸」の老朽化に伴い、新船「第十八わかと丸」の建造を開始した。
  • この船は、今まで無かった2階客室や水洗トイレを設置し、洞海湾クルージングにも対応可能な船となり、通常運航と貸切船の両方を行っている。

通船

 明治44年、第一、第二かわと丸の就航により使用されなくなった伝馬船と従業員は渡航者のために終夜(0時から5時)運航していた。二丁櫓をきしませて渡る情景は『大渡川渡船』の名残をとどめていたが、昭和13年4月着火式発動汽船に改造され、伝馬船は姿を消した。(渡船沿革史による)
 深夜運航は戦後、戸畑通船企業組合に引き継がれサンパン(ポンポン船)で親しまれてきたが、若戸大橋開通後は利用者が激減し昭和48年10月廃止された。

貨物渡船(フェリー)

 自動車の発達普及、貨物輸送量の激増は渡船事業の上にも多大な影響を及ぼした。特に若松市は地形上陸送の便が悪く、北九州各都市との自動車貨物輸送は折尾町(現在の八幡西区折尾)を迂回するため、大変不便なものであった。
 若松市では、昭和4年10月『貨物事業の施設及び経営に関する件』を市議会で可決。昭和5年に経費についても可決し、戸畑市とも慎重に協議を重ねた結果、昭和7年3月に最新式ディーゼル機関で前後部に推進器と舵を備えた貨物船『第八・第九わかと丸』を建造し、貨物船専用桟橋を昭和9年3月に完成させ、28日より運航を開始した。

第八わかと丸の写真
第八わかと丸 昭和7年3月から昭和37年9月就航 総トン数 43.34トン 日本最初のカーフェリー
第九わかと丸の写真
第九わかと丸 昭和7年3月から昭和37年9月就航 総トン数 43.34トン

若松・戸畑両市の利便性は言うに及ばず、北九州各都市間の貨物輸送上、一大変革をきたし、若戸の名物となり、視察、見学のために各都市からの訪客は相当な数に上ったと記されている。(渡船沿革史による)

第十一わかと丸の写真
第十一わかと丸 昭和28年から昭和37年9月就航 総トン数 53.35トン

 またこの貨物船は、通勤通学の早朝のラッシュ時及び若松恵比寿祭の多客時には客船の代用として活躍し渡船のドル箱的存在であったが、若戸大橋の完成により、昭和37年9月27日に廃止となった。
 なお、この特殊な貨物船は、東京湾フェリーの参考にされたといわれている。

観光船 

 戦後のインフレもおさまり、世情が落ち着くと『遊覧船の義』が起こり、昭和26年から準備にかかり、昭和28年6月下関三菱造船所で進水『くき丸』と命名、同年8月から洞海湾にその雄姿をあらわした。
 洞海湾から関門港、めかり水族館の遊覧、夏季の納涼船、下関西山海水浴場、若松競艇場等の旅客の送迎に活躍したが、昭和38年北九州市五市合併前に廃止、長崎県に売却された。

観光船くき丸の写真
観光船 くき丸 昭和28年8月から昭和37年11月就航 総トン数 172.32トン 定員 270人

設備

 建物等の設備についても、昭和46年5月戸畑渡場を改築新装し(鉄筋コンクリート二階建 278.42m2)これまで若松にあった渡船事業所を戸畑に移転した。
 また、昭和52年7月には、若松渡場を改築新装した(軽量鉄骨コンクリート二階建 151.41m2)。さらに、昭和61年3月戸畑側渡り桟橋、中桟橋の屋根を改装、同年6月に若松側渡り桟橋を新造取替え、同年7月には、待合所及び桟橋に照明(橙色サイン球388個)を点灯し、若戸渡船の面目を一新した。
 また、平成8年12月に若松渡場待合所の増改築を行い、平成9年3月には若松側桟橋を新設した。

このページの作成者

産業経済局総務政策部渡船事業所
〒804-0075 北九州市戸畑区北鳥旗町11番1号
電話:093-861-0961 FAX:093-861-0962

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